後藤勇吉資料館


郷土が生んだ日本民間航空界の草分け、後藤勇吉氏を紹介します。
不屈の精神で、わが国の航空界発展のために、数多くの業績を残した民間パイロット
の先駆者であり、わが国第一号の一等操縦士、一等飛行士の免許取得者です。
功績を残している割には以外と知られていないのではと思いページを設けました。

延岡市では後藤勇吉延岡顕彰会、延岡市教育委員会、延岡ラジコンクラブ等が協力しあって
毎年、後藤勇吉メモリアル飛行大会などを通じて色々な行事を開催しています。
今年は生誕110周年記念「夢は大空に」の展示会が開かれています。

     生誕110周年記念「夢は大空に」空の先駆者 後藤勇吉展






 この人に関しては「わが国初の」という
 言葉がたくさん出てきます。
 以下は私が知り得た「我が国初の」に
 関する事項です。
 *一等操縦士第一号
 *一等飛行士第一号
 *帝国飛行協会第一回大会優勝
 *高度五千メートル突破
 *旅客飛行
 *郵便飛行
 *生鮮農産物輸送
 *日本一周飛行


  
  延岡市にある後藤勇吉の銅像






  

  詩人、野口雨情が後藤勇吉を
 悼み詠んだ歌碑
 銅像のすぐ横にあります










後藤勇吉氏について
1896年(明治29年)11月12日生
1928年(昭和 3年) 2月29日没

1896年
宮崎県延岡市南町の旧家の四男として生まれる。
小学校の時は空を舞台にした神話やおとぎ話に興味を持ち中学校に入って
からは機械に興味を持ち自転車を改造して水上自転車にしたり蒸気発動機
製の精米機を作ったり当時、県北に一台しかなかったオートバイを借り出して
乗り回したりしたという。
模型飛行機に興味を持ち自作したのもこの頃。

1914年 
県立延岡中学校(現、延岡高校)を卒業と同時に上京し、エンジン研究の
ため梁瀬自動車に無給の見習い職工として入社。自動車エンジンの勉強と
研究に取り組む。

1915年
梁瀬自動車を退社し飛行家白戸栄之助の助手となる。
日本最初の複葉式水上機インディアン60馬力白戸式巌号を製作し地方巡業
に出かけるが途中、機体故障で失敗し契約不履行のため機体を差し押さえ
られ解散し帰郷する。
                                                                           




 白戸式巌(いわお)号
 インディアン60馬力

 独力飛行練習中の勇吉





1916年
7月に売りに出ていた白戸式巌号を父親を説得して購入。門川町尾末海岸で
独力飛行練習を開始し工夫、改良の後、9月10日に高度30m、最初の直線
飛行に成功した。その後、直線飛行や旋回飛行の練習に励むがどうしても50m
以上の高度には上がらなかった。限界を感じて再び上京する。
                





 尾末海岸での練習風景
 格納庫から波打ち際までの
 運搬には近くの青年達の
 協力があった


1917年
帝国飛行協会の第三期飛行練習生になり本格的に航空学と飛行練習を学ぶ。。
この時採用者は三百数十名中 三名であった。
訓練機はモーリスファルマン式70馬力。技術の優秀さが認められ翌年卒業と
同時に帝国飛行協会に技師として残る。
                                                





 モーリスファルマン式70馬力

 練習生時代機上の勇吉









1918年   
召集令状によりシベリアに一年間出兵し翌年除隊。

1919年 
日本飛行機製作所に入社。しかし川西(後の川西飛行機)、中島(後の中島
飛行機)両氏の意見の相違により会社は解散し、千葉県津田沼の伊藤音次郎
が経営していた津田沼飛行場に客分として入る。
この時使った飛行機はホールスコット80馬力。
この頃、出てくる飛行機の名前はゴーラム150馬力恵美号、ホールスコット、
ゴルハム120馬力等。
父親を説得しセールフレーザー社から最新のルローン110馬力を購入し伊藤
飛行研究所で勇吉の新しい飛行機を製作する。
これを富士号と名付けた。富士山の日本一と後藤家の屋号ふぢやを取り入れた
ものである。

    
   伊藤式16型 富士号 ルローン110馬力
     全幅 5.34m 全長 6.05m 複座  機重 750kg
     機体横の菱形マークには1/2の数字が入っているがこれは後藤勇吉と
     坂東舜一(後の日本航空総支配人)の共同出資、共同製作であり二人の
     力の結集を意味するものであった。

1920年
8月の帝国飛行協会主催第一回飛行大会に、伊藤式16型富士号で参加し
高度飛行及び高等飛行で一位、速度飛行で二位となり頭角をあらわした。
この大会前には数人で後藤飛行機広告社を設立し飛行機からビラをまく仕事を
はじめているが東京の有名商店からたくさんの申し込みがあった。

8月15日、京都で空中文明博覧会が開かれ各務ヶ原航空大隊のソ式三型2機が
飛来し高等飛行をする予定だったが悪天候で来れなくなり、この時ビラまき飛行で
来ていた後藤勇吉は富士号で飛び上がり曲技飛行を行いこの博覧会の人気を
一人でかっさらう。15日から19日までに4回飛行している。

8月22日 京都大阪間の郵便飛行に成功する。

10月に郷土訪問飛行(延岡・都城)を行った。延岡では2万人の大観衆で埋まり
大盛況だった。

11月に大阪・久留米間の懸賞郵便飛行に参加し富士号120馬力でスパット13型
(イスパノスイザー200馬力)、中島式5型(スターテパンド210馬力)、白戸式(イス
パノスイザー180馬力)を相手に2等に入る。

1921年
わが国第一号の一等操縦士、一等飛行士の免許を取得した。

1922年 
3月。岐阜県各務ヶ原〜東京代々木間の、わが国初の旅客飛行飛行に成功。
これは川西飛行機の委嘱を受け研究開発したマイバッハ300馬力搭載の3人乗り
複葉機で東京の平和博覧会を訪問しようというもので旅客は東京日日新聞の五十嵐
氏と都新聞の楠氏の2名。途中悪天候のために天竜川河口で一泊したが合計
飛行時間2時間半、距離250マイルであった。
               







 川西式K−3型
 マイバッハ・260馬力
 高度6000mまで上昇可能




6月〜8月。カーチス式水上飛行艇で東京湾遊覧飛行を行うが飛行艇が転覆して
機体を損傷したため中止する。 

11月3日〜10日帝国飛行協会主催の東京大阪間郵便飛行に参加。
これは14名の参加者が1日に2〜4機で東京、大阪をそれぞれ出発し往復して
トータル時間を競うものであり主要な記録は下記の通りである。
後藤勇吉  川西式マイバッファー260馬力    5時間34分
石橋勝浪  スパットイスパノスイザー180馬力  5時間55分
片岡文三郎 中島式ホールスカット150馬力    6時間21分
郵便飛行番外として加藤寛一郎、ブレゲー式金属飛行機で4時間49分。

1923年  
第二回郷土訪問飛行。これは大阪、松山、別府、福岡、釜山間の航路開拓の
意味を持つ飛行であったが横廠式150馬力の飛行機で大阪・宮崎間400浬
をこのような小型機で飛ぶなど誰も試みていなかった。
宮崎では観衆5万人、この時は日野氏が縄ばしごに吊り下がったり主翼上に
立ったりの演技飛行をしたり後藤氏の長兄、彦四郎氏を同乗させたり派手な
イルミネーションをつけての夜間飛行も実施している。
延岡では母親を同乗させて飛行している。
   
  宮崎での郷土訪問飛行 横廠式ロ号水上偵察機 イスパノスイザ200馬力
    この機体は日本航空株式会社発足後の大阪ー別府定期航空便でも使用。

川西機械製作所が巨大資本金をつぎ込んで日本航空株式会社を設立する。
後藤勇吉は飛行機操縦面のすべてを担当することになる。
大阪・別府間三往復半の旅客輸送に着手する。
瀬戸内海を舞台に日本航空株式会社と日本航空輸送研究所は激しい競争を
することになり、これが毎日新聞社と朝日新聞社の航空事業競争を煽る結果と
なっていく。日本航空輸送研究所は設立当初から朝日新聞社と深い繋がりが
あり根強い対立意識に燃える、毎日新聞社は日本航空株式会社と手を結び
巻き返しに出たものであり、この後、関東大震災を巡る空の報道戦、新聞原稿
輸送、日本一周飛行、欧米訪問飛行などに発展していく。

1924年 
7月23日〜7月31日の9日間、春風号で、わが国初の日本一周に成功。
これは航空思想の普及と日本製飛行機の耐久力試験という目的で大阪毎日
新聞社と日本航空株式会社が共催し挙行したものである。
使用機は川西航空部が総力を結集した3人乗り水上旅客機川西K6型、マイ
バッハ式260馬力、積載量740kg、時速265km、3000mまでの上昇時間
17分の高性能でこの頃の民間機としては最優秀の旅客機であった。
                             



 川西式K−6型 春風号
  マイバッハ260馬力

 春風号の命名者は「空の宮様」
 と言われた山階宮武彦王殿下




途中天候不順、霧など幾多の困難もあったが総飛行距離4395km、飛行
時間33時間34分、平均速度130kmで日本一周の偉業は成し遂げられた。
コースは大阪ー鹿児島ー福岡ー金沢ー秋田ー室蘭ー湊ー霞ヶ浦ー江尻ー
四日市ー大阪であった。

1925年
2月。空中活動写真試験撮影。ニュース映画を作ったがこれは映画界を強く刺激。
帝国キネマの関心が強く同社の看板スター五月信子を勇吉の飛行機に乗せて
宣伝写真を撮ることになり、その申し入れの際、帝国キネマのカメラマンが五月は
我が社のドル箱だから墜落させないように気をつけて欲しいと言ったところ日本
航空の川西竜三社長がかんかんになって怒りだし「五月は帝国キネマのドル箱か
知らんが後藤は日本航空界のドル箱だ。比べものにならん、五月は落ちても
後藤は絶対に落ちん」と言った。
後藤勇吉の存在はそれほど光って重要な存在だったとのことである。

12月31日にプレジデントオブマシンデーという2万トンの外国船が午後3時に
横浜からアメリカへ向けて出港するのに午前10時に船荷証券や銀行証券等の
重要書類を神戸に置き忘れた事が分かり大騒ぎになった。
この時、後藤勇吉が川西式7型の飛行機で神戸からこの書類を届け大正15年
元旦の新聞種になったエピソードもある。

1926年 
大阪から京城、大蓮、両航空路を開拓し我が国初の海外郵便輸送に成功する。
この頃後藤勇吉は日本航空株式会社の航空輸送の総責任者として40数名の操縦士と
数十名の航空機関士、助手を率いて航空事業の第一線に立ち、又川西製各型の
テストパイロットとして活躍し部下の育成に当たっている。
路線開拓にも自らが先頭に立ち操縦している。

1927年
5月、宮崎〜大阪間でわが国初の生鮮農産物を空輸し阪神地方に「日向
かぼちゃ」の名を高めるとともに販路拡大に大きく貢献した。
この頃から四国、九州向けの貨物空輸が始まる。また勇吉は宮崎県沿岸で川西式
K7型機でカツオの大群発見をねらい魚群探査飛行も行っている。
                  



 川西式K−7型
 ロレーン400馬力

 日本初の水陸両用機
 水・陸の切替時間は1時間
 46秒の滑走で離水可能
 高度1000mまで6分
 時速180km


6月、日本航空会社が組立を急いでいた初の大型飛行艇ドルニエ・ワールが完成。
翼長22.5m、機長25mで10人の客を乗せ、民間機初の無電室を設けていた。
試験飛行後、7月に大坂・別府間の処女飛行を行った。
8月に大坂・上海間2000kmを往復する海洋長距離飛行に飛び立つ。上海には
無事到着したが帰りは向かい風の強風がたたり燃料不足となり長崎県的山大島に
不時着したが積んでいた極東オリンピックの新聞用写真とニュース映画はほかの
方法で無事大阪に着き、我が国初の国際間新聞写真の空中輸送に成功した。
                




 ドルニエ・ワール飛行艇
 ロールスロイス・イーグル
 375馬力×2機基搭載
 翼長22,25m機長17m



1927年
6月、帝国飛行協会が世界初の太平洋無着陸横断飛行を発表。
これは世界的懸案であった太平洋横断を国産飛行機を使用し航空知識を啓発し
太平洋航空路開発の大使命を果たさんとするものであった。
後藤勇吉を監督として藤本照男、海江田信武、諏訪宇一の4名が選任された。
11月28日、霞ヶ浦航空隊に入隊し12月から訓練を受けるようになった。

この時の訓練予定は下記の通り。
第一期基礎訓練(12月〜3月)
 12月 アプロ陸上練習機2機による計器装備訓練並びに計器飛行
  1月 13式艦上攻撃機2機よる機体並びに発動機装備訓練、夜間飛行
     霧中飛行
  2月 13式による航空訓練及び夜間飛行
  3月 13式による霞ヶ浦ー三宅島ー遠州沖ー明野ケ原ー霞ヶ浦間無着陸
     飛行、霞ヶ浦ー大村間往復飛行、霞ヶ浦ー明野ケ原間往復夜間飛行
第二期応用訓練(4月〜出発まで)
  4月 太平洋横断飛行機完成、
     練習機性能試験、重量離陸訓練、30時間以上連続耐久飛行訓練、
     耐寒高度飛行訓練
  5月〜6月中旬 
     練習機による本州ー四国ー九州ー朝鮮ー台湾ー関東州(中国)間
     長距離無着陸飛行
  6月下旬〜7月中旬
  6月中旬横断機完成、横断機の整備並びに試験。
  7月下旬 横断機による霞ヶ浦ー北海道根室間往復無着陸飛行。
  8月下旬 出発、その壮途に上がる。

この訓練中には太平洋横断は50時間程度かかる予定であり霞ヶ浦周辺を不眠不休で
50時間歩き続ける事を提案したり、計器飛行に至っては民間飛行士としては4人とも
初めての経験で指導の海軍にみっちり指導を受けた様子。
横断飛行機に関しては設計や堪航証明で航空局が許可を出さず川西との間で色々な
駆け引きが行われている。

1928年 2月28日
13式艦上攻撃機で霞ヶ浦〜大村間の往復長距離飛行訓練に出発。
午前7時55分、霞ヶ浦出発。午後4時40分、600哩を一気に飛び大村到着。
この時は操縦は後藤勇吉、同乗者は諏訪飛行士、岡本大尉。

      2月29日
この日は4年に一度の閏年の2月29日で「さんりんぼう」で仏滅、天候は雨。
当日は大阪までは雨、浜松までは曇りの予報で佐世保、大村、広島の各海軍
航空隊は天候不良の故に飛行中止となっていた。
しかし、3名は雨中飛行、霧中飛行には十分な自信を持ち横断飛行の準備訓練と
しては格好の天候と判断し3コースの予定を立て午前8時に大村を離陸。
操縦は諏訪飛行士、同乗は後藤勇吉、岡本大尉。
       
墜落までの経緯は生存した諏訪飛行士の手記に詳しいがここでは省略。
高度600m〜1000mの雲中飛行で一時は位置を見失いながらの飛行で大村に
引き返す決意をし進路変更後、雲の切れ間を見つけ下降し山と山との谷間を抜け
高度を上げるときに柿の木に主翼を引っかけて墜落、炎上した。
諏訪飛行士、岡村大尉は火傷を負いながらも脱出したが後藤勇吉は即死。
場所は佐賀県藤津郡(現、鹿島市)七浦村、享年33歳であった。
                   
 



 川西式K−11型
 試験飛行に好成績を収め
 海軍指定工場への道を開いた
 機体。
 太平洋横断予定の機体は
 川西式K−12型



                
 *参考文献:「後藤勇吉傳」昭和4年後藤飛行士記念協会発行
 *  〃  :郷土の先賢物語9 延岡市立図書館蔵



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後藤勇吉メモリアル飛行大会                              
冒頭で紹介しました1999年、後藤勇吉メモリアル飛行大会の様子です。
延岡市には後藤勇吉顕彰会があり毎年行事を行っています。
(以下、写真提供は延岡ラジコンクラブ、中島年文様です)

式典会場 
 式典会場と春風号

















富士号と春風 待機中の富士号と春風

 富士号
 エンジンOSFT160
 (画面左)

 春風
 エンジンOS120FS
 (画面右)










調整中の富士号と春風 富士号と春風の調整風景



















離陸前の富士号と春風 飛行直前の富士号と春風


















ラジコン飛行を見る観衆

 飛行を見る観客













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